大阪地方裁判所 昭和45年(わ)2775号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕弁護人は、犯行当時被告人は飲酒による病的酩酊のため心神喪失の状態にあつたと主張するが、判示認定に供した前掲各証拠によれば、被告人は犯行当時飲酒による複雑酩酊の状態にあり、そのため是非善悪を弁識し、その弁識に従つて行動する能力が著しく減弱していたものと認められるが、未だその能力を欠如するに至つていなかつたことが明らかであるから弁護人の右主張は採用できない。以下その理由について詳論する。
鑑定人金沢彰は、犯行時の被告人の精神状態を病的酩酊であると診断し、その主要な論拠として、(一)犯行当時被告人には見当識の粗大な障害があつて現実意識を喪失し、(二)酩酊に伴う身体的麻痺症状(言語障害、歩行障害等)が欠如しており、(三)覚醒後広汎な記憶欠損すなわち完全健忘とはいえないが島性の健忘を残しているとの三点を指摘している。確かに、被告人がそもそも何故にマンションに立入り三階に上つたのかその理由は全く不明であり、犯行の態様をみても、被害者の夫や子供の面前で、しかも欲望を充足するに必要以上の痴態を繰り広げているなど被告人にはある程度見当識に障害があつたのではないかと疑わしめる形跡もないわけではない。しかし、被害者の寝姿を認めて室内にはいり、同女やその夫の首筋に菜切包丁を押しあて「静かにせい、騒ぐと殺すぞ」などと言つて脅迫する一方では子供に対して「ぼくは黙つて寝や」とさとすように言い、夫を縛り上げるなどして強いて同女を姦淫し、犯行後追手から逃がれるべく階段をかけ下りかなりの距離を疾走するという犯行時およびその前後における被告人の行動全体を通観するならば、その犯行は、一面被告人の平常の人格から予想できないような感を抱かしめるものの、そこには充分了解しうる動機、目的があり、行為自体に非現実的、夢幻的な様相は認められず、部分的にはいささか了解困難な場面がないとはいえないが、全体としてはよく現実との連関が保たれており、自己の行為の意味を理解した目的のある行動をしているものと判断することができ、浜鑑定人指摘のごとく、被告人の見当識障害の程度が粗大であつたとはいい難く、ことに、現実意識は概括的に保たれていたものと考えるのが相当であつて、犯行時被告人には見当識の粗大な障害があり、現実意識を喪失していたとの金沢鑑定人の所見には容易に賛同し難いのである。次に酩酊に伴う身体的麻痺症状の有無について、金沢鑑定人は、被害者や目撃者の供述調書の中で、被告人が酩酊状態にあつたことについて触れているものがほとんどない点を指摘し、また、犯行前被告人と共に飲酒したOの供述中「被告人は別に今までと変つた酔払い方でもないので、一人で帰れると思つていた」「ひようひようとして歩いていた」「彼が酔つているということは知らなかつた」旨の表現があること等に着目して、当時被告人には酩酊に伴う身体的麻痺症状が欠如していたと判断している。しかし、それらは当時被告人に顕著かつ重篤な麻痺症状がなかつたことをうかがわせるにすぎず、それが欠如していたことを示す適切な資料たる価値を有するものではなく、高橋昇、宮本福利の供述調書によれば、被告人は被害者の夫を追つて山内マンションを飛び出し、近隣の者に追われて勢いよく走つて逃げたが、約二〇〇メートルで駐車中の車に「もたれるようにして座り込み」「へたばつてしまつた」ことが認められ、Oの九月一日付供述調書によれば、同人は被告人と別れた時の被告人の状態を「今までと変わつた酔つ払い方でない」「いつもと変らないような酔つ払い方」と表現していること、司法警察員作成の捜査復命書によれば、当日被告人がOとともに午後一〇時すぎと午後一一すぎに立ち寄つた酒屋の主人が、いずれも「二人とも大分酔つていた」「二人とも酔つてはいたが…」と述べていることなどを総合すれば、当時被告人はそれほど顕著ではないにしても、いわゆる酩酊状態にあり、それ相応の身体的麻痺症状を示していたことが明らかに認められ、この認定と異なる前記所見も直ちに採用できない。更に覚醒後の記憶について検討してみると、<証拠略>総合すれば、被告人は警察で取調を受け始めた当初から、「被害者の寝姿を見て部屋の中に入つたこと、男を縛つたこと、女を強姦したこと、その際女に包丁を突きつけたこと、頭を殴られたこと」についてはかなり明瞭に記憶していたものと認められ、このことと、その後捜査官が被告人の記憶を喚起するために誘導的な取調方法をとつたにしても、結局被告人の司法警察員に対する九月七日付あるいは検察官に対する同月一〇日付各供述調書にそれぞれ記載されているような相当詳細な記憶が導き出されていることを併せ考えれば、「犯行時の記憶は概括的に保持されており、広汎な記憶欠損はなかつた」と認めるのが相当であり、広汎な記憶欠損があり島性の健忘を残すとする金沢鑑定人の見解には同調し得ないのである。また、被告人の記憶には、Oと別れてから被害者の部屋にはいるまでの間のことが全く欠落しているが、前掲各証拠によれば当日の被告人の記憶障害は、その段階において突然あらわれているのではなく、それ以前の時点から飲酒量に応じて徐々に進行していることが認められ、この点においても、意識障害の急激な発現があつたとする金沢鑑定人とは認識を異にせざるを得ないのである。
以上述べたとおり、金沢鑑定はその前提とする事実判断に首肯できない点があるので、これをそのまま採用することはできない。
(なお金沢鑑定によれば、被告人には軽度ながら脳波に異常の存することが指摘されているが、浜鑑定によれば、その程度の脳波異常は普通の酩酊状態を逸脱する傾向を示唆し、あるいはその可能性を支持する一資料にすぎず、病的酩酊と直接結びつくものではないというのであるから、右脳波所見は前記判断を左右するものではない。)
結局前掲各証拠を総合すれば、本件犯行時の被告人は飲酒のため複雑酩酊の状態にあり、それによる精神障害の程度は心神耗弱の状態にあつたものと評価するのが相当であると認められるので、本件犯行を心神喪失中の行為であるとする弁護人の主張は採用できない。
(浅野芳朗 西田元彦 渡辺雅文)